2010.03.19 Friday 11:51
「松林図屏風」の謎と石川産松茸(その2)
等伯との二度目の出会いは、五木寛之の百寺巡礼(第二卷、妙成寺)を読んでいた時である。 氏はこの項で等伯についてかなり詳しく述べている。 能登の七尾に生まれた等伯は、染物屋に養子に出されたとのことだ。 養父から絵を学び、二十代の頃、仏画を描き始める。 七尾時代は信春と名乗っていたので、初めは、能登の信春と、京都で活躍した等伯との区別がつかなかったとのことである。 氏は当然だろうと述べ、理由として、信春時代に描いた極彩色の「涅槃図」と、等伯の「松林図」は、とても同じ人物が描いたとは思えないことを揚げている。
なお、等伯と名乗った画家には、四十五才以前に作品がなく、当初は別人と考えられていたとのことだ。 等伯が七尾から京都に向かったのは三十才を過ぎてから、それも妻子を従えての上京だった。 勿論、京都を目指すからには支援者がいただろう。 だが、当時、都の画壇は狩野派が独占していた。 信仰する日蓮宗をたより、その伝手で千利休という大物の支援を得ることになる。 そして、画壇の寵児、狩野永徳と対峙することに。(文献:百寺巡礼)



